気持ちをわかってくれないのは、大切に思われてないから?

今日は、「『愛情』と『共感』は分けて考えるが吉」という話をしたいと思います。

「そんなのわかってるよ」って思うかもしれません。
私も、ずっと「頭」では理解していました。

でも、ある時、この事がガツーンと腑に落ちた事があったのです。

今となっては、過去の私は、本当の意味ではわかってなかった。

今日は、これを読んでくださった方にも「共感と愛情は別」を腑に落としてもらいたいと思います。

グチを聴いてくれない人は愛情がないのか

先日、「旦那さんがグチを聴いてくれない」というお悩みについて、ブログと動画の両方で取り上げました。

ブログ記事:自分を変えたい人が知っておくべき「挫折あるある」

YouTube動画:旦那や彼氏が愚痴を聞いてくれない!愛されてないの?

この動画のなかで、チラっとこんな話をしたんです。

「身近な人ほどグチを聴きにくい。私も、自分の母親の愚痴は聞けません」と。

母の愛情に不満があった過去

私はずっと、自分の気持ちを分かってくれない母の愛情に不満がありました。

私の母は、「過干渉・過保護タイプ毒親」だったのです。

「過干渉・過保護」って言っても、うちの場合は言葉や行動が「甘やかし」に見えないタイプです。

とにかく「ダメな子扱い」がひどい。

妹が色々しっかりしてる子なので、比べられての劣等感が半端なかったです。

成績も、生活面(貯金とか節約とか)も、しっかりしているのは妹の方でした。

「妹はしっかりしてるのに、それに比べてあんたは…」

そんなことを言われ続けて育ちました。

大人になっても妹や親せきと比べられ「あんたは甘い。あんたはダメだ」と言われ、言い返せない自分がふがいなかったです。

これは、今でも引きずってるなぁと思う事がしばしばあります。

未だに妹の方がしっかりしてるしね。笑

小さい頃は、割とハードな「体罰」もあったので「母は虐待タイプかもしれない」と思ったこともあります。

でも、「身体の暴力」を思い出しても別に辛くないので、私にとっては「言葉や態度」の方が辛かったんだと思います。

とにかく、やることなすこと否定される。バカにされる。ダメ出しをくらう。

私はものすごく、劣等感の強い人になってしまいました。

(※もちろん、母ひとりのせいではありません。もう大人ですし、私の問題です。)

10代までは、愛されている自信もありました。

私は、社会人になるまではとても社交的な方だったので、両親とも、両親とつながりのある大人とも、妹より仲良く出来ている自負がありました。

でも、自信にはつながりませんでした。

「バカな子ほど可愛いって言うしね。」という感じで、「バカだからこその恩恵」と思っていたのです。

「状況」と「自己嫌悪」は比例しない

自分で言うのもなんですが、私は別に、偏差値の低い方ではありません。
(高くもないけど)

田舎だからなんだけど、住んでいる地域では「すごいね」と言ってもらえる学歴でもあります。
(妹はその上を行ったけど)

最初に就職した会社だって胸を張っていい会社だと思うし、一番長く続いた「プログラマー」だって、まあまあ「すごいじゃん」と言ってもらえる職種です。

それでも、自分の能力に対する劣等感が強いのです。

どんなに周りにほめてもらっても、
「いえっ!自分なんか全然ダメっす!なぜなら〇〇と××が出来ていなくて…!!」って、
とにかく受け取り下手が尋常じゃない。

自分で「自分のダメな部分」を一生懸命探してきて、わざわざ落ち込んでる感すらある。

つくづく、「状況と自己嫌悪の度合いは比例しない。問題は自分で創り出している」なぁと思います。

自尊心が低くてプライドが高い。

「心理学の教科書的な例」を地で行ってる私です。

…まあ、ちょっと話が横道にそれましたけど、母は、ほんの数年前まで、とにかく私をダメな子扱いし、心配し、やることなすこと否定しました。

※ ほんと、よくもまあ、あのガンコな「毒」が抜けたもんだと、あきらめずに向き合った自分を自分でほめたいです。笑

※ でも、今思うと、「私から『自信がないオーラ』が出てるから(大丈夫オーラが出てないから)母が心配してた」ってのもあるんです~(^^;

もうね。諦めようと思ってたんです。

60も過ぎた人間が、そう簡単に変われるものじゃない。

母は、一生「過干渉毒親」のままだ。

私がどんなに一生懸命自分の気持ちや考えを訴えても、母がそれを理解し受け入れてくれることはないだろう。

ダメな子扱いがなくなることはないだろう。

私が、何を言われても心折れない自分になるしかない。

共感だけなら他人でも出来る

そんな時に、とある著名人の言葉が私の目に入ってきたんです。

「共感だけなら、小料理屋の女将でも出来るしね。」

「小料理屋の女将とか、水商売の人とか、めっちゃ共感してくれるじゃん。あれ、他人事だから『まるごと共感』できるんだよな。」

「共感してくれない事と、愛してくれない事は、分けて考えようぜ」

みたいな内容でした。

その時、目からウロコが落ちたような気持ちになったんです。

私は、水商売の経験もあります。

「ああー、そうか。私も水商売の時に、お客さんに全面共感してたわ。」

「全面共感って、愛がなくても出来るわ。いやむしろ、そこに責任も愛も何もないから全面共感出来るんだ。」

そう思ったのです。

その時初めて、理屈でしか理解していなかった「母には、ちゃんと愛情がある」が、腑に落ちた気がしました。

私の母を見る目が「ありのままの娘を受け入れられないダメな母親」から「ごくごく普通の人間らしい母親」に、変わりました。

・・・・・。

・・・・・。

・・・・・。

自分も「共感・傾聴」が大事な仕事をしているくせに、セルフ営業妨害みたいな話をしてますけども。

やっぱり私も、母や娘の話は、「全面共感」では、聴けないのです。

アドバイスもしたくなるし「それはやめといた方が」っていうことは、反対意見を述べてしまうのです。

「共感は無責任の上に成り立っている」という言葉を使うのは抵抗がありますが、そういう側面があることは否定できないな、と思うのです。

もちろん私は、クライアントさんや、友達も、とても大切に思っています。

クライアントさんと真剣に向き合っているし、心の底から幸せになって欲しいと願い、幸せになれるように全力でサポートさせてもらっています。

そして、無責任だろうと何だろうと「全面共感のパワー」は計り知れないものだ、という事も間違いはないのです。

今日書いた事が、「共感・傾聴の大切さ」を否定する事にはならないのです。

でもね。それを身内に求めるのは、酷な事なのかもしれないなぁと思うのです。

よっぽど人間として成熟してないと、キツイと思うのです。

「自分で自分の欠点を受け入れるのが難しい」のと似てるのです。

受け入れてくれなくても、気持ちを分かってもらえなくても、私たちは、愛されているんだなと思うのです。

「分かってもらえないからこそ、愛されている」とも言えるのではないでしょうか。

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